私の作品づくりにおきましては、大きく2つの流れがあります。
一つは、世界が平和であり、子どもたちが親の愛をいっぱいに受け、母親の膝の上で、ま
た父親の背中に乗って遊び回っているような、光景が彫刻となり人々の憩いの場である
広い公園の芝広場なんかに置かれ、子どもや親たちがその彫刻にのって遊ぶことができ
るような、そんな彫刻が創れればと思っています。

もう一つは、現代社会病理というものですが、日常の中に潜む、隠された暴力とでも言
いますか、『目には見えづらい暴力』というものを取り上げています。

世の中では、幼児への虐待からはじまり、学校でのいじめ、社会生活でのセクハラやパワハラといった知らず知らずのうちに受け、また与えてしまっている暴力。その暴力によってストレスが発生し、やがては社会病理という現代病へ発展していくことの恐ろしさを感じ、
これらの社会現象を彫刻を通して表現することができないか、また少しでも現実の姿を表現することによって、暴力の姿を認識し、歪んだ現実を少しでも是正することができないだろうか、といった試みも行なっています。

すなわち上の二つの流れは、一つは“愛の世界”でもう一つは“闇の世界”です。
この二つの世界感が自分自身の中で、すなわち皆様においてもそうだとは思いますが、捻れ合い、こころの葛藤となって、私自身を彫刻の制作に向わせているものと思います。

私の彫刻作品の展示会に於きましては、その展示方法にも工夫を凝らしています。
従来では彫刻作品の展示といった場合、その作品に触れることすら許されませんが、本来、彫刻とはもっと五感で感じるものであります。

私はまず“彫刻の台座”について、その彫刻が決して作品化・装飾化とならないように、鑑賞者の立つレベルに近い高さとしています。

また彫刻の立つ“座”の素材感と、鑑賞者の立つ“場”の素材感を同じものとしています。

また、構成される彫刻空間内にも鑑賞者が入り込むことができ、彫刻と直面し、また実際に彫刻に触れる(これには鑑賞者の善
意を期待しなければなりませんが)ことによって、彫刻との『同一化』を図ろうと試みています。

すなわち、従来のような彫刻の鑑賞方法であると、ただ“見て見られる”関係だけに終始し、テーマ性のある彫刻の場合、それだけでは非常に捉えきれないものもあります。

もっと深く彫刻作品に入り込み五感で感じ、彫刻との同一化を図らなければ、ただただ昔の彫刻作品の鑑賞の域を出ることは出来ませんし、新しい彫刻のあり方とは言えません。

またそこが絵画作品との重大な相違点であることにも繋がります。

さらに、その彫刻の主題を深く掘り下げるために、すなわち鑑賞者の方々に主題の意味をより広く捉えていただくために、必要とされる他のジャンルの方々にも参加していただき、相乗効果および共鳴効果を狙って、鑑賞者により深く主題に入り込んで戴けることをを試みています。

それは単に流行りの『コラボレーション(共同作業共同・合作)』といったものではなく、『学際的』に主題を捉える行為でもあります。それは展覧会が少しでも社会的意義のあるものに供することができればとの願いからです。

私自身、作品においては美術作品の制作というものに価値を置いてはいません。それ以上に、作品が現実そのものであることに価値を付しています。それを見ることにより、『自分自身の中に同じ自分を発見し、そして今の自分を姿を知る』といった媒介的な役割を彫刻作品に託しているように思います。
 
現代において、何のお役にたてるのかも解らない『美術』という化け物。
私はこの化け物の住処に安住する気にはなれません。

私にとって『美術』とは『生きざま』であり、あくまで人助けに供するものでなければならないと考えています。

この考え方は非常に独断的で、一般美術愛好家には毛嫌いされる以外の何ものでもないことは十分に承知されるものですが、それが『生きざま』といえるものなのでしょう。

生まれもって十字架を背負っているのかもしれません。